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  By Kano Origuchi
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目次(最新順)
009 
次回 隣の部屋をつくる
008 平易に、さらに易しく説明すれば、できるようになるとは限らない
007それが果たして、ケアレスミスなのか 7/24new
006 箸休め 天才を目指す
005
 一点突破

004 中1ギャップは小学校から始まっている、ただ気がつかないだけだ
003 デフォルトモードネットワーク
002 完璧を目指さない勉強
001 先手の勉強
000 このサイトのスタイル
 000 このサイトのスタイル

 最初に「サイトをつくった理由」を理解してもらってからの方がすっきりするのだが、とても長くなりそうで追々書いていこうと思う。教職を辞して主宰した小さな私塾だが、そこから見える景色と何をしたいのかが伝えられればありがたい。
 経済や社会全般に渡って日本のシステムが順調ならそれでいいが、あちこちで不具合が起こっているようだ。災難や異変が起こったときに、そのほころびが表に現れてくる。
 最近では教育に関することに限ると、コロナ禍でオンライン授業をしようにもOECD加盟国中情報機器の使用環境が最下位に近いことが分かった。また、フードロスが問題になっている反面、学校給食がストップすると影響が及ぶ子どもがいる。
 コロナ禍がなかったとしても、教育には顕在化していない不具合がある。

 その不具合を解消するために「こんなスタイルで数学を勉強してもいいんじゃないか」という提案である。

 このサイトの管理者が考えている不具合は次のようなものだ。
 勉強というものが時代の変化に取り残されている、ずれているのではないか。そこに共通しているのが「貧乏くささ」だ。
 そう感じる理由は、勉強の動機付けや目的が「役立つ」ことに偏りすぎている、数値化できる能力でないと判断できない、訳の分からないことや難解な知識などを一時的にしろ脳内に持つ余裕がない、そういう環境に中学生が置かれているということだ。

 
「役立つ知識」は腐るのも早い、といったのは数学の名物教授だった森毅の言葉だ。例えば中学生なら定期テストの点数を上げるためだけの勉強がこれにあたる。ただ中学生にとって動機付けとしては目先の目標が必要だが、どうしてもやせ細った知識になってしまう。
 点数偏重が行き過ぎるとこんなことが起こる。定期テスト対策といって、ある塾では中学校で出た過去問を保管していて、この先生の担任にはこの問題をさせる。チェーン店を展開している塾なら、転勤してきた先生に対しては赴任前の学校のある支店から取り寄せるという。特に副教科ではほとんど同じ問題がでるらしい。

 生徒(人間)を評価するのは難しい。想像力、創造力、観察眼、共感力、統率力… 主観的なものはなおさらだ。公平という観点からいえば、客観的なテストとなる。それは仕方がない。しかし、数値化できるもの(テストの点数など)で分かる能力はごく一部分なのだと心しておくことが大切だ。コロナ禍での対応は、資質として各国のリーダーが持っている共感力や想像力の差がでたのだと思う。もちろん上に立つ官吏も同様だ。

 人類は何万年かに一度大進化するだろうといわれている。ということは、急激に発達した情報機器に人類はそれに対応できるても、理解の仕方や思考の方法や知識の獲得方法はそう簡単に変わらないと考えている。だから、古来よりある学習法には意味があり、人の能力を引き出す方法はあらかた出尽くしていると考えた方がよい。認知の構造や脳の機能が解明されて「それでこういう勉強をしていたのか」と納得はできても、新しい学習法が見つかるとは考えにくい。

 例えば小さいときからわけの分からないまま漢文やクルアーン(コーラン)を暗唱するには意味があると考える。分からないもの、分野の違うものを一旦頭に置いておく。そうすると頭の中で発酵が進む、反応釜みたいなものがあって化学反応を起こす、それが壁を乗り越える、止揚、成熟する、スランプから抜ける… ということだと思う。
 ネットやハードディスク上に膨大なアーカイブがあったとしても、小中学生にとって、それなりの使い方はできるだろうが、それらを発酵させる能力をつけてやらねばならない。
 読書百遍意自ずから通ず、アイデアが出てくるのは馬上・枕上・厠上、バカンスでは何もしない、アルキメデスがヘウレーカと叫んだのも、頭の遊びがあってできるものだ。
 それでこのサイトでは「かしこ」くなるためのテーマを2つに絞った。
「先手の勉強」「完璧を目指さない勉強(ただし、テストでは満点をとる)」である。勉強のスタイルを変えれば日本の将来にも光が差し込むんじゃないか、という大それた希望を持って中学数学に臨んで欲しい。

 
   001 先手の勉強

 先手の勉強とは、@ 賞味期限の長い、何にでもよく効く勉強 A 損得を考えず、ただ興味の向くまま本を読んだり、直感で頭に納めておこうと思った知識が頭のどこかに置いておく。勉強と思っていない勉強、そう考えてよい。

 森毅だけでなく、慶應義塾塾長だった小泉信三も「すぐに役に立つものは、すぐに役に立たなくなる」という言葉を残している。就職や仕事上で検定試験や免許をとるのも「役立つ知識や技能」として必要だが、小学生せめて中学生ぐらいまでは自分の能力を高める勉強をしてほしい。
 時代が変われば、請われる知識や技能も変わってくる。高校や大学で学んだことぐらいで一生やっていこうというのは、厚かましすぎる。新たに勉強したい、新し知識を獲得する必要に迫られたときの能力をまず鍛えてほしい。

 定期テストの点数を上げるための勉強、プログラミング教育が導入されるとなると先取りして塾で始まる。何かに対応した時点で「後手」をふむ。プログラミング教育が悪いのではない。実際にはプログラミング的な思考法を各教科に導入するようだが、プログラミング教育によって子どもたちのどんな能力を引き出そうとしているのかが見えてこない。アルゴリズム? 論理的思考? そんなことは算数や数学や他教科で以前からずっと目標としてきた。
 それよりも、SideAで子どもの実態を知ってほしい。子どもたちが何に躓いているのか、何を身につけさせたいのか、どんな能力を開花させたいのかをもう一度見直せば、優先順位が分かるはずだ。

 時代が変わっても、新しい機器が出てきても、AIによって仕事が変化しても、反対に天災で機器が全く使えなくなったとしても通用するのが「先手の勉強」だ。
 何をしていいか分からないときに、思考停止せずに前に進める。このサイトでは、中学数学の問題を通して、「どうやって島にとりつくか」「五里霧中でどう行動するか」…を考えていきたい。そういった方法は数学だけに通用するわけではない。何にでもよく効く方法なのである。


 
   002 完璧を目指さない勉強

 完璧を目指さない勉強とは、腹八分目を目指す勉強ではない。勉強時間を短縮して余った時間を読書やスポーツ、興味のある分野に振り向ける。もちろん休んでもいい。そのための勉強法と思ってもらいたい。もちろん公立高校の入試問題は満点を目指す。

 中学生に数学を教えている手前、毎年の入試問題を何県(府)か解く。そのとき実際に使っている知識や技術はそんなに多くない。中学の教科書と算数で十分である。学習指導要領の範囲外から出題される私立難関校もあるが、無視するか、または前述の知識・技術プラス知恵で対応する。難しそうな問題でも、結局は基本の組み合わせだからである。どうしても時間内に解かせたくないような問題もたまにあるが、あせって解く必要もない。暇なときに頭の体操にとっておけばよい。

 パレートの法則(経験則できちっとした理論ではないが)というものがある。別名「80パーセント・20パーセントの法則」という。例えばある工場で出る不良品の原因の上位20パーセントをなくせば不良品が80パーセント減少する。山ほどの機能があるスマートフォンで、20パーセントのよく使う機能で80パーセントはカバーできる・・・など、そういう使い方をする。
「よく検定や資格試験の勉強法で、出題問題の内重要な20%を押さえれば、80点がとれる」という使い方をされるが、このサイトのスタイルはこれとは考え方が違う。

 このサイトで使う知識や技術は「基本の知識・技術」であって結果的に全体の20%ぐらいにあたるかもしれないが、80点を目指すのではなく
欲張って満点を目指す。満点の元となるキーワードは「かしこ」である。知恵やエッジ、自分の持っている知識を使いこなす、使えるものは何でも使う…自分の持っている資源を総動員させる。
 そういったものは基本的に個人のものだ。なぜなら、ちょっとでも楽して計算したい、わざわざ回りくどい解き方をしなくてもこれを応用すれば…といった積み重ねが「かしこ」の貯金となる。
 しかし、そんなことを思いついて実行に移す生徒はそんなにはいない。まじめで愚直だ。示された解き方から外れるのを怖がる。変化球で攻めた解答に確証がないのである。
「一回試したら」と無理強いはしない。一歩踏み出した生徒が納得したとき「そういうことなのか」と教科書などに書かれてある公式の意味が初めて分かる。

 このサイトでは、そういうことを交えながら進める。何のためかと、もう一度念押しするならば、自由になる時間を作り出すためである。

 
   003  デフォルトモードネットワーク

 デフォルトモードネットワークとは「勉強した後は、ぼーっとして脳を休めよ、そうすれば賢くなっている」という魔法の働きをしてくれる脳神経のネットワークのことだ。
 しかし、君がぼーっとしている間にも、意識下で脳は猛烈に仕事をこなしている。昼間学校で学んだことを繰り返したり、理解しづらいところを整理してくれている。一説によると、君たちが勉強している時間に使われるエネルギーの20倍が使われているらしい。

 脳の意識下の働きを軽視してはいけない。しかし、ぼーっとするのを後ろめたく思ったり、暇になるのを嫌がる日本人は多いのだろう。旅行はせっかく来たのだからと、分刻みのスケジュールで目一杯見て回るという、日本人の性質を表す定型句みたいなものがあった。

 これが勉強になると、生徒はつらい。昔に比べて書店に行けば問題集のたぐいは山ほどあるし(学校で配られる副教材で十分なのだが)塾も乱立している。「子供たちに暇があるのは、よくないことだ」と思う教師もいる。
 中学の教員だった友人が定年退職して、ある私立の中高一貫の進学校に講師として再就職した。講師だから、二回りぐらい年下の担任のサブについた。休みがあるごとに「生徒に宿題を出してくれ」といわれる。今週は3連休だから、夏休み前で(生徒の)時間が余っているはずだから… 生徒に自由になる時間を持たせると、ろくなことにはならないと思っているらしい。そんなスキマ時間を埋めるような宿題に、子供たちが成熟し、賢くなるようなエビデンスがあるなら賛成するが、時間を自由につぶさせない以外に目的が分からない。

 そういえば、私の塾に来ている子が、あまり社会科に興味を示さない。なぜかと聞くと、配られるプリントの問題さえやっておけば、点が取れるという。試しにその問題をみせてもらうと、地理の問題なのだが、ただ暗記だけの問題が何枚ものプリントに刷られていて、何十年か前の死語になっている用語まである。この先生は塾出身かなというと生徒はそうだといっていた。

 これから先、塾で育った年代が先生になり、親になっていく。増えはしても減りはしないだろう。じっくり考えるよりはレスポンスの早さ、質よりも量を覚える、「
教科書で教えてもらう」から「教科書・問題を教えてもらう」… そんな教育が当たり前だとみんなが思うようになっていくのが気にかかる。

 なぜ気にかかるのかという理由は、さしあたり2つある。

 一つは、子どもたちが授業や教科書や問題で分からないところがあればネット(真偽の判定は別として)などを使って、たちどころにそれを解決してくれる場所がたくさんできた。それ自体は喜ばしいことだ。
 何が不満かといえば贅沢な悩みなのだが、世の中が便利になって、分からないもの、こんがらがっているものを頭の中で飼っておくことをしなくなったことである。知識や技術の多さだけで人間は成長するわけではない。意識下でいろいろな情報を整理、統合してくれるというデフォルトモードネットワークの活用が必須だと思う。
 情報の整理以外にも、リアクター(反応釜)の機能があって、創造力やアイデア、知識・技術の深みに関わると考えている。(リアクターの発想はウォルター・フリーマン「脳はいかにして心を創るのか」から、心もアイデアも同じだろうと、借用した)
 昔の人は、そんな知見は知らなかったが、人間にはそんな能力があると分かっていたのではないか。
 だから、古くは、アルキメデスが浮力の原理を発見したとき「エウレカ」といって風呂を飛び出したとか、ひらめきやアイデアは馬上、枕上、厠上ででてくるのだという話が途切れず伝わっているのだろう。このようなひらめきやアイデアは、筋道を立てて導き出されるものではないのだ。
 発想法やアイデア関連の書籍、例えば「アイデアのつくり方」という本の中でも同じようなことをいっている。(著者はジェームス・ヤング。文庫本サイズの100ページしかない小さな本だが、初版が1988年で70刷以上の超ロングセラー。今でも大きな書店に行けば本棚の一角を確保している)

 知識が増えればいいというわけではない。発酵して、熟成してこそ、しっかりと身につくものなのだ。しかし、世の中はスピード、効率、役立つ… が優先され、勉強もビジネスモードのタイムスパンでで考える風潮がある。以前に塾に来ていた小学生が、これから別の塾があるから早く終わりたいという。何を勉強するのかを訊くと、「速読法」を習っているのだという。返す言葉が見つからなかった。
 5分で何十、何百ページか読める知識よりも、理解できない、しっくりこない、違うんじゃないかといいながら、日を置いてまた読み返す1ページのほうがはるかに成長に繋がるんじゃないかと思うのだが…。
 もう一つの理由は「速さや量を争うような勉強は身内で順位を争うのなら有効だが、それは賞味期限が切れかかっているのではないか」という予想だ。
 日本がまだ成長時代であれば、そのような勉強でもやってこられたのであろう。日本社会はすでに成長時代から成熟、ひょっとして成熟を迎えずに縮み始めているのかもしれない。
 成長期には粗っぽくても先ずは前へという能力でもよかったが、成熟期には緻密で大人の知恵や能力が必要になる。
 しかし、日本は緻密より粗野、大人の知恵より子どもの発想に向かっているのではないか。複雑な問題を安易でチープな解決法に頼ろうとする。素早い決断、スピードがもてはやされている時代だが、裏を返せば、深慮不足、出口戦略のない決断、スピードのために安全装置やブレーキを取り外して極力軽くした車に乗っているようなものだ。
 
 このような時代に身につけるものは何か。このサイトを作ろうと思った理由のひとつがここにある。

 今これを読んでいる君が中学生なら、次のことだけ習慣にしてほしい。

「難しい問題や考えに出会ったら、分からないものは分からないままで頭の中で飼っておく。分からないものが頭の中にあると、いらっとしたり、すきっとしないかもしれない。時間をおいてまたやってみる。それでも分からないときは、誰かに訊けばいい」

 
   004  中1ギャップは小学校から始まっている、ただ気がつかないだけだ

 中1ギャップは、小学生から中学生になったとき、校区、文化、小・中学校の勉強や考え方の違いなどの差や、それに伴うショックのことをいう。
 このサイトの管理人は、勉強に関しては小学校の中学年あたりから、その芽があるのではないかと思っている。

 ただ、小学校の間はそれが目に見える形で現れてこない。算数なら、計算さえしっかりしておけば、単元の内容がはっきり理解できていなくても、その単元の問題をその場しのぎで解くことはできる。ただし、知識や技能は定着しているとは言い難い。それでもある程度の点数が取れる。
 なぜなら、小学生の間は単元が終わるごとにテストをするので「この単元はかけ算の式が多いから」かけておくだけで点が取れる。

 一人一人をよく観察すれば、6年生で算数のテストが90点であっても中学になれば平均点あたりで苦労するとか、70点でも何とか中学数学はいけそうだということが分かる。そう判断する2,3の例を挙げる。ただし、その例に当てはまるからといって、それだけで判断はしない。生徒たちの言葉の端々や問題を解いていく様子など総合的に判断している。

(例1)先に学んだ知識や技能が、後に学んだ別単元の知識に入れ替わってしまう。
 例えば、足し算・引き算の筆算は桁を合わして計算するが、かけ算の筆算はそうしない。
 かけ算を学んだあとで加減の筆算をすると、桁を合わせずに計算してしまう生徒が必ずいる。記憶が書き換えられているのだ。「そうではない」と間違いを直させて、それで安心とはいかない。ことあるごとにチェックしないと何回も同じ間違いを犯してしまう。記憶力の問題ではない、頭で理解するのと身体に入ってくる数量の感覚の問題なのだろうと思う。



上段右端の計算を、声を出させて読ましてみる。
「じゅうはちてんに 足す じゅうご は じゅうろくてんしち ???」
「君の計算では、18に15を足すと16に減るんやな」


(例2) 計算の約束事や仕組みが分かっていることでも、先に頭に浮かんだことを優先する。

 30÷2×5 という計算がある。計算の順序は前からだ。

 30÷2=15 15×5=75

 しかし、計算の後半にある 2×5(にごうじゅう)が頭に浮かぶと、計算の順序はもう頭の中から消えて、30÷2×5=30÷10=3 と計算してしまう子が少なからずいる。
頭に浮かんだことを優先してしまう。そのような傾向は熟語の読みにも共通してみられる。
 未習・ボキャブラリーがないので読めないのは、教えればすむことだ。下記の漢字の誤読例がまずい。二字熟語が読めないときは、緊急避難的に「音音読み」で読んでおこう、といっているのだが。

 空虚 きょぞう:理科で学習した虚像が「空」をとばして検索にヒットした。
 沿革 かくめい:「沿(えん)」より先に「革」がヒットして、頭の中で「革」に連なる語彙で最初にヒットしたのが「かくめい」
 
 上の例以外にも、計算では×の符号がないのに掛けてしまう、怪しい定義や理論を作り出す。… 枚挙すればきりがないし、成績が下位の生徒に限ったことではない。

 しかし、それらは現象として表に現れているに過ぎない。SideAで生徒の実態を先に書いているのは、コンピュータのプログラムのように子どもはその通りには動かないし、親や教師が経験した通りに子どもも同じように理解しているとは限らない。そういうことが分かっていないと、優先順位が分からない。
 小学校の算数がしっかりしていれば、その財産で中学校の数学なら最初の半年ぐらいは、何とかやっていけるはずだ。中学になって急に数学が難しくなったわけではない。

 
   005   一点突破

 ものごとの理屈や書かれている文を理解するには、共通する知識、知恵、技能が必要である。数学を勉強する過程にも、他教科にも有効な知識などが含まれている。
 だから、数学の能力がつけば、それに引っ張られるように他教科の成績も上がる。それを数学の学習によって一点突破するという。ただし、社会やでも美術でも固有のものがあるから、そこまではカバーできない。

 例をあげる。
 難しい問題は、いろいろな基本を組み合わせて作る。数が多いほど、より難解になる。こんがらがった糸をときほぐすように、絡み合った基本をときほぐすことができれば、解決の糸口が見えてくるかもしれない。そういう能力は他教科に限らず、実生活にも応用できる。

 こういうことは勉強だけに限ったことではない。どの分野でも、そう考えている人がいる。そうでなければ、一点突破という言葉が生まれてこなかったと思う。
「エンピツ画のすすめ」(風間完 朝日文庫)の中で画家である著者は「よい仕事というのは基礎の部分で共通するものが沢山あるので他のジャンルの仕事も理解し易いということになるだろう」といっている。

 もう一つ、理解ということについて、例をあげておく。

 「問題(知識なども含む)を理解する」のではなく、「問題の理解の仕方を理解する」のである。メタ理解といって、これによって理解度がぐっと上がる。

 英語を勉強し初めの生徒がぶつぶついいながら、英作文をしている。
"Where do..."はあるけれど、"Where does..."は聞いたことがないので間違いかもしれない。"Where am ..."はあるわけがない。

 What do や What can そういうくくり方で覚えているから、滅多に見ないものは間違いだと考える生徒は結構いるものだ。
 そうではなくて、例外はあるが、What,When,How,What time,How many ..s などの疑問詞のあとに疑問文がくるのだ、と見方を変えさせるだけで納得する子がいる。
 What do / you have? ではなくて What / do you have?

 「What do ではじまる疑問文は…」という参考書かあったように記憶しているが、どちらがいいのか分かりかねるが、理解の方法が分かれば他教科でも、仕事に就いても、理解し易い。
「あの人は、仕事の飲み込みが早い」といわれる人は、仕事そのものを覚えるより、この仕事どう理解するか、という視点からスタートしているのだと思う。

追補:心理学でいわれる「学習の転移」や「メタ認知」という理論やエビデンスがまだ分かっていない時代にあって、「一点突破」という言葉でそれらを表したのではないかと思う。
 「そうだったのか」「そう考えるのか」「やっと納得した」という経験は、プチブレイクスルーみたいなものだと思う。それが重なって、ある閾値を超えたところで大きな飛躍が待っているのだと思う。

 
   006   箸休め 天才を目指す

 本の帯や塾のチラシに「天才を育てる」というコピーがあるのをたまに見かける。残念ながら、そんなことは不可能である。天才は育てるものではなくて、勝手に育つものだからである。
 我々凡人がどうあがこうが、ブラックホールみたいな天才の頭の中身や行動原理を解明できない。たぶん、本人もどうしてそうなったか分からないのではないか。
 努力し論理を学び技量を極めても秀才にはなれるが、天才・鬼才とは呼ばれない。凡人からすれば、秀才も雲の上の人ではあるが、何となく秀才ができあがっていく過程は予想がつく。しかし、天才は最初から突き抜けているか、超弩級のブレークスルーが起こって彼岸にワープしているから、どうしてそうなるのか想像すらできない。

 天才ときくと、最先端の科学技術、アートなどの分野で活躍している人や、未来を見通したり、スケールの大きな人をを思い浮かべる。しかし、もっと身近なところでも、常人の創造力では理解できない突き抜けた人がいるはずだ。そういう人たちも天才と呼んでいいと思う。そういう人たちの話が一人でも聞けたら、何か分かるんじゃないかと思った。

 高校で勤務していたときに、算盤十段の同僚がいた。クラスのテストの集計と平均点の計算を頼んだことがある。表の上から下まで目を通すと同時に結果がでてくる。あとで少し悪いと反省した。十段は9桁、10桁の足し算を扱いなれている。彼から桁の少ない足し算はやりにくいと聞いたことがあるし、2桁の計算を十段にやってもらうのは失礼だったからである。

 算盤有段者の暗算は頭の中で珠をはじくという。何かの参考になればと、桁の多い足し算をするときに頭の中はどうなっているのかと訊いてみた。
 例えば、億まである9桁の数が10個あって、それを足していくときはどうなっているのかというと、次のように説明してくれた。

 上から足していくと同時に頭の中の算盤の珠が激しく高速で動いているのだそうだ。それらの位置は本人にも分からない、スロットマシーンの絵柄がぐるぐる回っているのイメージに近いという。しかし、どんどん足して最後の段までやってきたときに、珠がぴたっと止まる。それが答えになっているという。残念ながら、生徒を教えるヒントにはならなかった。

 この話を思い出して、「天才」はリミッターを外すのに成功した人じゃないかと考えた。普通の人間は誰でもすごい能力を持っていて、それを常時使うと脳や身体を酷使してしまうから、リミッターによってわざと能力を押さえているのではないか。
 例えば、火事場の馬鹿力は非常時にしか出てこない。自分の耳をふさいで大声を出すと、より大きな声が出ると何かの本で読んだ記憶がある。(これを大声コンテストに応用すれば優勝すると思う)
 ほかにも、我々が持っている常識というリミッターもあるだろう。大正の後期あたりに、その頃の女性が米俵を5俵担いでいる写真を見た。1俵60sだから300sになる。現代人の常識から見れば、それは不可能だが、当時の常識がそれを可能にしているのだろう。その時代の担いだり、持ちやすいのを基準にして1俵60キロと決めたらしい。現代人には考えられない重さだ。
 
 では、どうすればリミッターを外せるのだろう。多分、何かが好きでたまらない、興味が尽きない、もっと知りたい、もっと動きたいという情熱や一途さがリミッターを外すのではないかと思う。
 しかし、いくら情熱があっても役に立つとかお金が儲かるとか、そのような動機では限界を突き抜けられない気がする。


 
   007   それが果たして、ケアレスミスなのか

 SideB104でも少し触れたが、新しく学んだ計算の約束事を、それ以前の別の約束事で成り立っている計算に適用してしまう。頭にふっと浮かんだものが正誤を考える前に書いてしまうことを述べた。
 それ以外にも、計算問題でマイナス記号をつけ忘れる、分母に書くべき文字を分子に書く。英文にするときに、文頭を大文字にするのを忘れる、文末のピリオドを忘れる、書こうとしている文字と書いている文字が違う… 数え上げるときりがない。

 集中力さえあれば、なんとかなると考える人が多いのではないか。生徒は生徒で「今は練習で、本番のテストでは間違わない」と言い張る。

 野球の守備練習でぼろぼろエラーをしている選手がいる。監督やコーチは「集中力さえあれば、何とかなる」と考えない。エラーを重ねている選手が「本番の試合では、エラーはしないよ」といっても誰も信用しない。それはただ単に技術が伴っていないだけで、集中力で技術はカバーできないし、練習でできなかったものが本番の試合でできるわけがない。

 定期テストの解答を見て、点数のよい生徒に共通していることは基本の問題を間違わない。これは入試問題(公立高校)にもいえる。難問を解けたからではない。(難しい問題というのは基本知識の組み合わせを多くして作っている。それらはどうするのかはまた別の項で)

 易しい問題を間違わない。基本問題をきっちり解く。それだけなのにケアレスミスが多すぎる。
 起こるべくして起こったミス、それらのミスにはすべて原因がある。ケアレスミスを原因にすると、何が問題なのかがぼやけてしまう。


 SideA第一章参照
 このサイトの管理人は、下の4つの観点から生徒たちを観ている。SideAで知識・技能が最重要なことは確かだが、4番目にしたのはなぜそれがうまく理解できないのか、なぜ定着しないのかの理由が1から3にあると考えているからだ。
1.言葉
2.ワーキングメモリーと脳のOS
3.リアクターとしての脳、その他
4.知識・技能

 
   008  平易に、さらに易しく説明すれば、できるようになるとは限らない

 最近(2019.Jun) 中学数学に限らず各教科でも易しく、さらに易しく、これでもかというぐらいに注釈をつけた参考書兼問題集のようなものが何種類も出版されている。

 題名をざっと見渡すと「とってもやさしい・・・」「ぐーんとやさしく・・・」「・・・ひとつひとつわかりやすく」「ホントにわかる・・・」… このような種類の書籍が増えたのは、それだけ需要があるからだ。その理由を思いつくままに書き出してみる。

 家で勉強しようにも、学校の宿題がわからない。
 保護者も忘れているから、勉強が見てあげられない。
 学校で先生の説明がわからない、学校では分かっていたはずだが復習しようとすると分かっていなかった。
 他の参考書より、懇切丁寧に書かれてあるように思うから。

 小さな書店ではスペースの関係でたいていは1社分そのような本が置いてあるのは分かっていたが、大きな書店に行くと、各社から出版されていて、さらに平積みになっている。いつから急に増えたのか知らなかった。

 ほんとうに勉強が苦手なら、残念ながらこれらの本を使っても、結局は分からないままに終わってしまうかもしれない。
 反対に、その参考書の例題の解き方を見て理解できて納得できるなら、次年度から一つ上のレベルの問題集なり参考書でもいいのではないかと思う。
 これらの問題集は懇切丁寧に解説しているように見えて、今までの参考書の説明や先生の説明を細かく区切っただけである。それらの部分部分は理解できても、全体像や一連の流れを把握できているかどうかが疑わしいのである。教える側も教えられる側も苦労しているのはその部分である。

 例えば、数学の証明などは、言葉と式を織り交ぜた文を10行前後書いて、初めてひとつの解答として完成できる。そのひとかたまりを「解答はこのようにして書く」と説明しても、一度で理解できる生徒はそう多くない。
 だから、4つぐらいのブロックに分けて、ブロックごとに必要な知識などを教える。それらをつなぎ合わせると解答になるかといえばそうはいかない。おおまかに解答の景色(設計図)を自分で描かなければならない。
 三角形の合同を証明するには、ABCDの4つのブロックに分けたものを順に解答を書くわけではない。問題全体を見回して、Dから推測してAに戻り、どの三角形の合同を証明するか考える。その間、脳は問題からわかるデータから合同条件を考える。これはCにあたる。それによってBに書くものがわかる。そういう諸々のことが脳で処理されて、答案が書き進められる。
 小さく区切った知識を組み立てるには、多くの問題に当たるより、一つの問題を徹底的にやって、解答の構造が分かる方が早いと思う。証明の解答はこういうものか、というのが見てくると、しめたものだ。

 問題や文章は、分けることによって易しくはなるが、それで全体が分かるようになるとは限らない。全体像がはっきりしないのは、いらつくし、もやもやした状態は精神衛生上よくない。しかし、そういうことはこれから何度でも訪れるもので、単純なことだけを選び続けると、成熟できない(大人になれない)。

 複雑なものをどう付き合い、消化する方法を中学数学の中で扱えたらと思う
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